フリー掲示板

スレッド一覧に戻る

コメント投稿

認証キー

上の数字4桁を(全角)で入力し「投稿する」を押してください。

投稿する

【1】:月刊水滸伝フリー掲示板(81)

64:名無し: 2017-05-28 00:03:41

17~63の続き 「公孫勝」や「燕青」達の何人かは、反乱軍が降伏し投降する直前に逃亡したと思われます。その後、この反乱軍の残党達はどうなったのでしょうか?この残党達が、山東省の山賊や盗賊達と同調して反乱を起こす可能性があります。当然、朝廷から刺客が送り込まれ、残党狩りが始まりました。「公孫勝」や「燕青」達は、追っ手から逃れるために、一時山奥深く隠れたと思われます。朝廷としては、遼・金などへの北方対策に兵力を費やしているため、反乱軍対応どころではなかったでしょう。数年後、「公孫勝」や「燕青」達が再び都に戻ったときは、なんと「宋江の乱」が世間から忘れ去られようとしていたのでした。

63:名無し: 2017-05-27 20:48:02

17~62続き 「宋江」、「盧俊義」達が暗殺された後も、山東省には多くの山賊や盗賊達がいます。朝廷としては、これから遼・金などへの北方対応があります。もし「宋江」達を殺したことが世間に流れると、この機に乗じて各地で反乱が起こるかもしれません。このため、「宋江」、「盧俊義」達を暗殺し、世間に知られないようにしたのでしょう。宋史には、童貫を総司令官とする南征軍に、「宋江」と同名の将軍がいたとされます。学者や民間人の中には、「宋江」達が招安を受け帰順したと考えているそうです。しかし、これは、捏造されたものか、または替え玉将軍を立て、世間がそのように受け取るための策と思われます。朝廷は、そうすることにより各地で反乱が起きないようにしたのでしょう。宋の力が弱くなったとは言え、朝廷の大臣達はやはり優れ者ですね。

62:名無し: 2017-05-27 19:31:47

17~61続き 「宋江」のような調整役は、その場限りの非常時の措置といわれています。実社会では、調整役はいたれりつくせりの待遇で扱われます。しかし、その背後には、強力な支援活動を行う外郭団体(総会屋)がいます。彼らを会社などに雇用したとしても、信用は置けませんし、結局は条件のよい会社の方へ要求することが多いのです。会社などの組織が、一時しのぎに彼らの要求を呑むことが結構あるのですが、次第に外郭団体に占領されていくのです。このことからも、会社などに彼らを引き込むことは、非常に危険なことがわかります。宋は今から千年前の国ですが、「宋江」率いる反乱軍(ヤクザ)への対応の仕方を見ると、当時の朝廷の大臣達も、現在と変わらない英知を備えていたことが伺えますね。あまり進歩がないとも言えますか・・・。

61:名無し: 2017-05-26 23:05:01

17~60続き このとき、もし「宋江」達が招安を受け帰順していたとすると、そのことが記録に残るはずではないでしょうか。また、「盧俊義」をはじめ「呉用」、「公孫勝」、「花栄」、「朱仝」、「戴宗」などの名前が出てきてもよいはずでしょう。しかしながら、宋史には同名と思われる「宋江」の名前しか現れません。逆に残された記録から判断すれば、既に「宋江」達はこの世にいないと考えるほうが自然でしょう。江南の「方臘」が討伐されたため、「宋江」率いる反乱軍は、官軍につかまれば、もはや助かる見込みはないことを知っていたでしょう。「宋江」が降伏し投降する直前に、「公孫勝」や「燕青」達の何人かは逃亡したと思われます。この反乱軍の残党達は、遠く都の噂を聞きながら、「宋江」達は暗殺されたことを確信したと思います。

60:名無し: 2017-05-26 22:33:38

17~59続き 「宋江」、「盧俊義」達は、闇から闇へと消え去っていったのです。そして、歴史に正式に残るのは皇帝の「徽宗」、宰相の「蔡京」、太尉の「高俅」、枢密使の「童貫」ということです。このように、「宋江」のような調整役は、非常時の措置であり人材の使い捨てを意味します。実社会では、犠牲になった人材は、決して表に名前が残ることはありません。消し去られていくのです。結果として政治家や会社の役員達が歴史に名を残すのです。しかし、現実には中国の歴史に「宋江」、「盧俊義」達の名前が残っているのです。一体これはどういうことなのでしょうか?

59:名無し: 2017-05-26 21:27:55

17~58続き しかし、既に江南の「方臘」は討伐され、もはや「宋江」率いる反乱軍は用無しになったのです。朝廷としては、まだ遼・金などへの北方対応があるのですが、「宋江」率いる反乱軍はヤクザですから、この機に乗じて何を仕出かすかわかりません。反乱軍(ヤクザ)を招安し帰順させたとしても、信用は置けませんし、結局は朝廷の甘い汁を吸おうとするのです。さて、宋史では、「方臘」は処刑されたと記録されていますが、「宋江」については何も書かれていません。これはいったい何故でしようか。おそらく「宋江」、「盧俊義」達は、牢獄の中で暗殺されたのではないでしょうか。水滸伝によれば毒殺とされていますが、どのように暗殺されたのかわかりません。

58:名無し: 2017-05-26 20:55:27

17~57の続き 宋史によれば、この間に、童貫軍は信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、「方臘」を捕え処刑しました。一方、宋の朝廷は張叔夜に宋江討伐を命じます。宋江は海沿いに船を置き、そこに食糧や戦利品を保管していました。張叔夜は軽兵を使い宋江の拠点付近で攻撃を仕掛け、戦闘の間に船に火をつけました。船が焼かれて宋江の仲間が戦意を失った時、副将が捕えられたので、宋江は降伏しました。(ウイキペディアより抜粋)このとき、頭領の「宋江」、副頭領の「盧俊義」と何人かの武闘家が捕らえられたのでしょう。

57:名無し: 2017-05-26 01:00:33

17~56の続き そのために朝廷は、「宋江」の機嫌を取り続けなくてはなりません。なかなか要求への回答もしないままだったでしょう。一方で反乱軍全員を招安し帰順させるという噂を流して、その気にさせて注意をそらし、時間を稼いだのだと思います。とうとう童貫を総司令官として15万の南征軍を編成し、方臘討伐を開始しました。なかなか要求が通らずに、利用されていることに気付いた「宋江」は、いったん招安し帰順したものの、朝廷を脱走してまた反乱軍(ヤクザ)に戻りました。宋史によれば、宋江の反乱軍は各地を転戦し、官軍をてこずらせたという記録があります。つまり「宋江」は、前よりいっそう武力で朝廷を脅したに違いありません。‘俺を甘く見るなよ’ということでしょう。

56:名無し: 2017-05-26 00:08:42

17~55の続き 宋史には、反乱軍全員を招安し帰順させるとも記録されています。これには「方臘の乱」への対応もあったかもしれませんが、やはり「宋江」率いる反乱軍を鎮めるための策でしょう。朝廷としては、反乱軍全員を招安し帰順させるわけにはいきません。もしそのようなことをすれば、反乱軍(ヤクザ)は「方臘」討伐へ行くどころか、朝廷をいいようにするでしょう。朝廷としては、このような時間稼ぎを行い「宋江」率いる反乱軍を鎮める一方で、江南の「方臘」を討伐する策だったと思われます。その後で、無用になった「宋江」率いる反乱軍を攻撃するという段取りだったのでしょう。

55:名無し: 2017-05-25 23:28:01

17~54の続き 北宋が、遼・金などへの北方攻撃に備えているとき、江南で「方臘の乱」が発生しました。この機に乗じて「宋江」も反乱を起こしました。「宋江」は、武力で朝廷を脅しながら、朝廷の危機をネタにゆすり招安などの要求を行ったに違いありません。宋史によれば、「宋江」はいったん降伏しましたが、また背いたということです。この記録では「宋江」はまだ処刑されていません。このとき「宋江」を招安し帰順させたのではないでしょうか。とりあえず「宋江」だけを招安し帰順させ、いたれりつくせりの待遇で懐柔しようとしたと思われます。「宋江」を反乱軍との調整役にするのが目的だったのでしょう。これはこれまで何度も述べましたが、現在でもよく使われる対応方法だったですね。

54:名無し: 2017-05-24 21:44:58

17~53の続き 宋代には、山賊や盗賊だった者が、朝廷より招安を受け帰順することがあったそうです。しかし、「宋江」率いる反乱軍(強盗集団)は、略奪・放火・殺人を繰り返し、官軍と何度も戦かっています。これでは「方臘」と同様に官軍に捕まれば死刑は間違いないでしょう。その「宋江」がなぜ招安できたのか、誰もが不思議に思ったに違いありません。実際に、当時「宋江の招安」を聞いて、民間人の誰もが驚いたそうです。この状況では、武力で朝廷を脅しながら、不正をネタに朝廷をゆするだけでは「宋江」の招安はとても不可能だったでしょう。やはり、ほぼ同時期に発生した「方臘の乱」や、遼・金などへの北方攻撃などが重なったことが、「宋江」にとって大変運がよかったのではないかと思います。しかし、もう一つ重要なことに、「方臘」はマニ教の徒ですが、「宋江」はヤクザだったことが挙げられます。宗教信者はただただ暴動を起こすばかりですが、ヤクザはゆするのが仕事ですからね。

53:名無し: 2017-05-24 21:44:25

17~52の続き 宋代には、山賊や盗賊だった者が、朝廷より招安を受け帰順することがあったそうです。しかし、「宋江」率いる反乱軍(強盗集団)は、略奪・放火・殺人を繰り返し、官軍と何度も戦かっています。これでは「方臘」と同様に官軍に捕まれば死刑は間違いないでしょう。その「宋江」がなぜ招安できたのか、誰もが不思議に思ったに違いありません。実際に、当時「宋江の招安」を聞いて、民間人の誰もが驚いたそうです。この状況では、武力で朝廷を脅しながら、不正をネタに朝廷をゆするだけでは「宋江」の招安はとても不可能だったでしょう。やはり、ほぼ同時期に発生した「方臘の乱」や、遼・金などへの北方攻撃などが重なったことが、「宋江」にとって大変運がよかったのではないかと思います。しかし、もう一つ重要なことに、「方臘」はマニ教の徒ですが、「宋江」はヤクザだったことが挙げられます。宗教信者はただただ暴動を起こすばかりですが、ヤクザはゆするのが仕事ですからね。

52:名無し: 2017-05-20 17:40:21

17~51の続き 「宋江」の本心は招安を実現することです。それには反乱軍という後ろ盾は欠かせません。このため、組織の分裂は絶対に避けなければならないのです。やはり、招安を希望する者とそうでない者の立場を尊重する必要があります。さらに、朝廷内(山東省・府・州・県)へ反乱軍から何人も官吏に登用されることで、政策に意見を反映することが可能となるのです。しかも、招安しなかった者たちが、外郭組織として強力にかつ激しく支援活動することで、朝廷内の「宋江」達の力が増します。つまり、招安後も反乱軍は一致団結し続け、それが故「宋江」達も朝廷内での地位が確立されるという訳です。これは、現代でも同じことが言えますね。

51:名無し: 2017-05-20 01:34:29

17~50の続き 逆に、反乱軍全員が招安するという訳にもいきません。「盧俊義」達のような元官僚なら可能かもしれませんが、「劉唐」、「阮小二」、「阮小五」、「阮小七」は、字も読めませんし無法者ですから、とても官吏は務まりません。その上、招安には絶対反対するでしょう。やはり、反乱軍内部で何度も話し合い、全員が納得できるものになったのではいかと思います。それは、次のような要求内容だったのではないでしょうか。やはり反乱軍の要求ですから、朝廷内の政務の主導権まで要求するものがあったとしても不思議ではありませんね。
 ➀和解金を支払うこと
 ②全員無罪とすること
 ③招安を希望する者は、官吏に登用すること
 ④招安した者の意見を政務に反映すること(減税、公平な裁きなど)
 ⑤民間人として復職を希望する者は、その職を保証すること

50:名無し: 2017-05-19 19:56:05

17~49の続き 「招安」は、水滸伝の中でも最も大きな見せ場の一つでしょう。ここでは次の2点がポイントとなると思います。
 ➀宋江の反乱軍内部のまとめ方
 ②朝廷側の反乱軍に対する対応
歴史に記録されている内容は、ごくわずかです。このわずかの記録から想像してみましょう。

49:名無し: 2017-05-18 19:38:01

17~48の続き 「替天行動」という旗印を掲げ、もはや宋国では無敵の反乱軍となり、罪人で反逆者でも世間から一目置かれるようになりました。全員が自信に満ち、あらゆる可能性を確信したでしょう。しかし、このままでは「宋江」達は反逆者のままで終わってしまいます。本心は招安を実現したい訳ですから、圧倒的な武力で朝廷を脅しながら、一方では上級官僚の不正をネタにゆすり、朝廷の上層部にまで‘招安したい’という要望を上奏し続けたのです。とは言え、「宋江」一人だけが招安するという訳にはいきません。反乱軍の中には「盧俊義」をはじめ「秦明」、「花栄」、「朱仝」、「戴宗」、「雷横」といった、元官僚達がいるのですから。また、「呉用」、「公孫勝」、「劉唐」、「阮小二」、「阮小五」、「阮小七」、「燕青」は、民間人出身の無法者達です。つまり、この者達を全員納得させる理由を作らないと、「宋江」の本心がバレてしまい組織が分裂してしまいます。さあ、これは大変困難な問題が起きてしまいました。

48:名無し: 2017-05-18 01:19:18

17~47の続き 宋史によれば、「宋江」の率いる反乱軍は黄河北岸に興り、1121年に淮南の諸地方を荒らした後、官軍の追討を受けて山東省西部、長江北岸を転戦し十郡を攻略したとあります。(ウイキペディアより抜粋)この時期、「宋江」を頭領とする反乱軍は、民間人の同調者も多数加わり、その人数は数万にまで膨れ上がったのではないでしょうか。もはや、官軍に鎮圧する力はなく、宋代最強の反乱軍(強盗集団)になったと思われます。また、この時期が「宋江」率いる反乱軍の最盛期だったのではないかと考えます。当時の反乱軍は、以下のような組織だったでしょう。
○第三代頭領「宋江」の時代
 副 頭 領 「盧俊義」
戦 略 家 「呉用」
戦略家補佐 「公孫勝」
武 闘 家  「秦明」、「花栄」、「朱仝」、「戴宗」、「雷横」
武闘家補佐 「劉唐」、「阮小二」、「阮小五」、「阮小七」、「燕青」

47:名無し: 2017-05-17 23:12:33

17~46の続き このように書くと、いつも兵力により朝廷を脅し、一方で官僚の不正をネタにゆすれば、裏取引へ持ち込み要求を通せることばかり書いているようにとれます。しかし、現在でもこのやり方は政治、公務員、警察、学校、企業、民間団体などでよく行われています。なんでも巷のうわさでは、共産党ややくざが企業の不正をネタに役員をゆすり、企業で破格の待遇になったとか、大企業に採用されたとか・・・。やくざが大学の裏口入学で教授をゆすり、一流大学へ合格したとか・・・。ウソか本当か私は知りませんが。ほら、一般の民間人でもよくやる手口でしょう?要は、共産党ややくざがやれば強力なネゴシエーターになるというところでしょうか。

46:名無し: 2017-05-17 22:11:41

17~45の続き この時期に、上級官僚である「盧俊義」、「秦明」が、謀反の罪で官僚の職を失しています。「盧俊義」と「秦明」は文・武両道であり、朝廷にも有力な人脈を持っているはずです。明らかに「宋江」より実力が上になります。このため、「盧俊義」達を仲間に引き入れれば、単なる寄せ集めの反乱軍が軍隊として統制・規律がとれるようになり、兵力が強化されますから官軍にも対抗でき、朝廷を脅す効果がいっそう高まります。その上、高級官僚の不正をネタにゆすれば、朝廷の上層部まで要望が届くようになります。「宋江」がこれほどまでして招安を実現したいと考えた理由は、単に犯罪者であり謀反人であるからということでなく、家としての名誉という考え方があり、いたれりつくせりの待遇の官吏の地位は、正にこれにピッタリだったからでしょう。

45:名無し: 2017-05-17 00:51:33

17~44の続き この無敵の強盗軍団が、略奪・放火・殺人を繰り返す中、官軍との闘いで頭領の「晁蓋」が戦死してしまいます。ドラマでは、死期が迫った「晁蓋」が、「宋江・・・・。招安したいのか・・・・?」と問うています。「晁蓋」自身は官吏とは関係ありませんから、当然招安には反対したでしょう。官吏に未練のある「宋江」の本心をよく知っていたのだと思います。「替天行動」の旗のもと、せっかく「晁蓋派」と「宋江派」の考えが一つにまとまったのですが、ここで「宋江」が強引に招安を行おうとすれば、組織が分裂することを心配したのでしょう。

  1. 1 2
  2. 3
  3. 4
  4. 5