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【1】:月刊水滸伝フリー掲示板(66)

69:名無し: 2017-05-29 23:00:36

17~68の続き (最終回)
 以前、私は、宋史に残された僅かな記録が、私が実社会で体験した「反対勢力への対応」とよく似ていることに気付きました。この対応方法は、現在でもあらゆるところで利用されています。これまで記載した内容は、この宋史の記録に、それを当てはめて想像して書いたものです。自分でも割とよく合うのではないかと感心しています。宋は今から千年前の国ですが、当時の朝廷の大臣達も、現在と変わらない英知を備えていたと思います。
 私は、歴史の専門家でも、小説家でもありません。全くの素人です。これまで記載した内容には、間違いや不確かなものが多々あると思います。今後、専門家や小説家により「宋江の乱」の真の姿が明らかになることを期待します。なお、これまで記載した内容については、一切著作権を問いません。水滸伝の良さは、民間人によって語り継がれるところにあるのですから。

68:名無し: 2017-05-29 20:26:40

17~67の続き 水滸伝は、民間人によって長く語り継がれてきた物語です。108星の中には山賊出身者が多く、これらは後世に追加された人物だと思われます。ここでよく考えて見ると、この追加された人物達は、全く架空の人物としてよいのでしょうか?そもそも落草した「宋江」を後押したのは、他ならぬ「晁蓋」率いる盗賊一味なのです。そういう意味から、語り継がれてきた「宋江の乱」を、水滸伝という物語として完成させたのは、山賊・盗賊の関係者であっても不思議はありませんね。「宋江の乱」には参加していないが、それ以降、実在の山賊・盗賊の頭領を追加した可能性もあります。水滸伝に名を記載することで、中国の歴史にその名を残そうとしたのでしょう。

67:名無し: 2017-05-29 17:48:24

17~66の続き 第三帝国を建て国王を名乗った「方臘」と違い、「宋江」は招安という別のやり方で目標を実現したのです。残念ながら、「宋江」は、官軍という檜舞台で活躍することはできませんでした。生き延びた「公孫勝」や「燕青」達は、「宋江」、「盧俊義」達がどういう人物であったか、一番よく知っています。「宋江の乱」が世間から忘れ去られようとする中で、「宋江の乱」の真の姿を知っているのは彼らだけなのです。「宋江」、「盧俊義」達が生きていたら、官軍という檜舞台で活躍していただろうと思い描いたことでしょう。このように「公孫勝」や「燕青」達が、「宋江」、「盧俊義」達を語り継いだからこそ、今もなお中国の歴史にその名前が残っているのです。(広島市在住)

66:名無し: 2017-05-29 16:43:09

17~65の続き それでは、「宋江」、「盧俊義」達を、単に罪人で反逆者として片づけてよいのでしょうか。「宋江の乱」が世に残したものは何でしょうか。彼らは「替天行動」という旗印を掲げ、宋では無敵の反乱軍となり、世間から一目置かれるようになりました。このとき全員が自信に満ち、あらゆる可能性を確信したのです。それは、江南の「方臘」が第三帝国を建てたのとよく似ていると思います。水滸伝では敵対していますが、おそらく「宋江」と「方臘」は、同じ志を目指す仲間だったのではないでしょうか。手段は何であれ、「宋江」が一度招安を受け帰順したことは事実です。落草した「宋江」が、「晁蓋」率いる盗賊一味の力を借りて、ここまでやることができたのです。

65:名無し: 2017-05-28 22:44:52

17~64の続き あの江湖の好漢といわれた「宋江」、「盧俊義」達でしたが、彼らさえ世間から忘れ去られようとしているのです。世間で言われているのは、宰相の「蔡京」、太尉の「高俅」、枢密使の「童貫」が手柄を立て昇進したということばかりです。微かに「宋江」達が招安を受け帰順したのではないかという噂もありますが、既に「宋江」達はこの世にいないのですから、民間人の前に姿を現すことはないのです。このように、犠牲になった人材は、決して表に名前が現れることはありません。消し去られていくのです。結果として皇帝の「徽宗」、宰相の「蔡京」、太尉の「高俅」、枢密使の「童貫」が、歴史に正式な記録として名を残すことができるのです。

64:名無し: 2017-05-28 00:03:41

17~63の続き 「公孫勝」や「燕青」達の何人かは、反乱軍が降伏し投降する直前に逃亡したと思われます。その後、この反乱軍の残党達はどうなったのでしょうか?この残党達が、山東省の山賊や盗賊達と同調して反乱を起こす可能性があります。当然、朝廷から刺客が送り込まれ、残党狩りが始まりました。「公孫勝」や「燕青」達は、追っ手から逃れるために、一時山奥深く隠れたと思われます。朝廷としては、遼・金などへの北方対策に兵力を費やしているため、反乱軍対応どころではなかったでしょう。数年後、「公孫勝」や「燕青」達が再び都に戻ったときは、なんと「宋江の乱」が世間から忘れ去られようとしていたのでした。

63:名無し: 2017-05-27 20:48:02

17~62続き 「宋江」、「盧俊義」達が暗殺された後も、山東省には多くの山賊や盗賊達がいます。朝廷としては、これから遼・金などへの北方対応があります。もし「宋江」達を殺したことが世間に流れると、この機に乗じて各地で反乱が起こるかもしれません。このため、「宋江」、「盧俊義」達を暗殺し、世間に知られないようにしたのでしょう。宋史には、童貫を総司令官とする南征軍に、「宋江」と同名の将軍がいたとされます。学者や民間人の中には、「宋江」達が招安を受け帰順したと考えているそうです。しかし、これは、捏造されたものか、または替え玉将軍を立て、世間がそのように受け取るための策と思われます。朝廷は、そうすることにより各地で反乱が起きないようにしたのでしょう。宋の力が弱くなったとは言え、朝廷の大臣達はやはり優れ者ですね。

62:名無し: 2017-05-27 19:31:47

17~61続き 「宋江」のような調整役は、その場限りの非常時の措置といわれています。実社会では、調整役はいたれりつくせりの待遇で扱われます。しかし、その背後には、強力な支援活動を行う外郭団体(総会屋)がいます。彼らを会社などに雇用したとしても、信用は置けませんし、結局は条件のよい会社の方へ要求することが多いのです。会社などの組織が、一時しのぎに彼らの要求を呑むことが結構あるのですが、次第に外郭団体に占領されていくのです。このことからも、会社などに彼らを引き込むことは、非常に危険なことがわかります。宋は今から千年前の国ですが、「宋江」率いる反乱軍(ヤクザ)への対応の仕方を見ると、当時の朝廷の大臣達も、現在と変わらない英知を備えていたことが伺えますね。あまり進歩がないとも言えますか・・・。

61:名無し: 2017-05-26 23:05:01

17~60続き このとき、もし「宋江」達が招安を受け帰順していたとすると、そのことが記録に残るはずではないでしょうか。また、「盧俊義」をはじめ「呉用」、「公孫勝」、「花栄」、「朱仝」、「戴宗」などの名前が出てきてもよいはずでしょう。しかしながら、宋史には同名と思われる「宋江」の名前しか現れません。逆に残された記録から判断すれば、既に「宋江」達はこの世にいないと考えるほうが自然でしょう。江南の「方臘」が討伐されたため、「宋江」率いる反乱軍は、官軍につかまれば、もはや助かる見込みはないことを知っていたでしょう。「宋江」が降伏し投降する直前に、「公孫勝」や「燕青」達の何人かは逃亡したと思われます。この反乱軍の残党達は、遠く都の噂を聞きながら、「宋江」達は暗殺されたことを確信したと思います。

60:名無し: 2017-05-26 22:33:38

17~59続き 「宋江」、「盧俊義」達は、闇から闇へと消え去っていったのです。そして、歴史に正式に残るのは皇帝の「徽宗」、宰相の「蔡京」、太尉の「高俅」、枢密使の「童貫」ということです。このように、「宋江」のような調整役は、非常時の措置であり人材の使い捨てを意味します。実社会では、犠牲になった人材は、決して表に名前が残ることはありません。消し去られていくのです。結果として政治家や会社の役員達が歴史に名を残すのです。しかし、現実には中国の歴史に「宋江」、「盧俊義」達の名前が残っているのです。一体これはどういうことなのでしょうか?

59:名無し: 2017-05-26 21:27:55

17~58続き しかし、既に江南の「方臘」は討伐され、もはや「宋江」率いる反乱軍は用無しになったのです。朝廷としては、まだ遼・金などへの北方対応があるのですが、「宋江」率いる反乱軍はヤクザですから、この機に乗じて何を仕出かすかわかりません。反乱軍(ヤクザ)を招安し帰順させたとしても、信用は置けませんし、結局は朝廷の甘い汁を吸おうとするのです。さて、宋史では、「方臘」は処刑されたと記録されていますが、「宋江」については何も書かれていません。これはいったい何故でしようか。おそらく「宋江」、「盧俊義」達は、牢獄の中で暗殺されたのではないでしょうか。水滸伝によれば毒殺とされていますが、どのように暗殺されたのかわかりません。

58:名無し: 2017-05-26 20:55:27

17~57の続き 宋史によれば、この間に、童貫軍は信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、「方臘」を捕え処刑しました。一方、宋の朝廷は張叔夜に宋江討伐を命じます。宋江は海沿いに船を置き、そこに食糧や戦利品を保管していました。張叔夜は軽兵を使い宋江の拠点付近で攻撃を仕掛け、戦闘の間に船に火をつけました。船が焼かれて宋江の仲間が戦意を失った時、副将が捕えられたので、宋江は降伏しました。(ウイキペディアより抜粋)このとき、頭領の「宋江」、副頭領の「盧俊義」と何人かの武闘家が捕らえられたのでしょう。

57:名無し: 2017-05-26 01:00:33

17~56の続き そのために朝廷は、「宋江」の機嫌を取り続けなくてはなりません。なかなか要求への回答もしないままだったでしょう。一方で反乱軍全員を招安し帰順させるという噂を流して、その気にさせて注意をそらし、時間を稼いだのだと思います。とうとう童貫を総司令官として15万の南征軍を編成し、方臘討伐を開始しました。なかなか要求が通らずに、利用されていることに気付いた「宋江」は、いったん招安し帰順したものの、朝廷を脱走してまた反乱軍(ヤクザ)に戻りました。宋史によれば、宋江の反乱軍は各地を転戦し、官軍をてこずらせたという記録があります。つまり「宋江」は、前よりいっそう武力で朝廷を脅したに違いありません。‘俺を甘く見るなよ’ということでしょう。

56:名無し: 2017-05-26 00:08:42

17~55の続き 宋史には、反乱軍全員を招安し帰順させるとも記録されています。これには「方臘の乱」への対応もあったかもしれませんが、やはり「宋江」率いる反乱軍を鎮めるための策でしょう。朝廷としては、反乱軍全員を招安し帰順させるわけにはいきません。もしそのようなことをすれば、反乱軍(ヤクザ)は「方臘」討伐へ行くどころか、朝廷をいいようにするでしょう。朝廷としては、このような時間稼ぎを行い「宋江」率いる反乱軍を鎮める一方で、江南の「方臘」を討伐する策だったと思われます。その後で、無用になった「宋江」率いる反乱軍を攻撃するという段取りだったのでしょう。

55:名無し: 2017-05-25 23:28:01

17~54の続き 北宋が、遼・金などへの北方攻撃に備えているとき、江南で「方臘の乱」が発生しました。この機に乗じて「宋江」も反乱を起こしました。「宋江」は、武力で朝廷を脅しながら、朝廷の危機をネタにゆすり招安などの要求を行ったに違いありません。宋史によれば、「宋江」はいったん降伏しましたが、また背いたということです。この記録では「宋江」はまだ処刑されていません。このとき「宋江」を招安し帰順させたのではないでしょうか。とりあえず「宋江」だけを招安し帰順させ、いたれりつくせりの待遇で懐柔しようとしたと思われます。「宋江」を反乱軍との調整役にするのが目的だったのでしょう。これはこれまで何度も述べましたが、現在でもよく使われる対応方法だったですね。

54:名無し: 2017-05-24 21:44:58

17~53の続き 宋代には、山賊や盗賊だった者が、朝廷より招安を受け帰順することがあったそうです。しかし、「宋江」率いる反乱軍(強盗集団)は、略奪・放火・殺人を繰り返し、官軍と何度も戦かっています。これでは「方臘」と同様に官軍に捕まれば死刑は間違いないでしょう。その「宋江」がなぜ招安できたのか、誰もが不思議に思ったに違いありません。実際に、当時「宋江の招安」を聞いて、民間人の誰もが驚いたそうです。この状況では、武力で朝廷を脅しながら、不正をネタに朝廷をゆするだけでは「宋江」の招安はとても不可能だったでしょう。やはり、ほぼ同時期に発生した「方臘の乱」や、遼・金などへの北方攻撃などが重なったことが、「宋江」にとって大変運がよかったのではないかと思います。しかし、もう一つ重要なことに、「方臘」はマニ教の徒ですが、「宋江」はヤクザだったことが挙げられます。宗教信者はただただ暴動を起こすばかりですが、ヤクザはゆするのが仕事ですからね。

53:名無し: 2017-05-24 21:44:25

17~52の続き 宋代には、山賊や盗賊だった者が、朝廷より招安を受け帰順することがあったそうです。しかし、「宋江」率いる反乱軍(強盗集団)は、略奪・放火・殺人を繰り返し、官軍と何度も戦かっています。これでは「方臘」と同様に官軍に捕まれば死刑は間違いないでしょう。その「宋江」がなぜ招安できたのか、誰もが不思議に思ったに違いありません。実際に、当時「宋江の招安」を聞いて、民間人の誰もが驚いたそうです。この状況では、武力で朝廷を脅しながら、不正をネタに朝廷をゆするだけでは「宋江」の招安はとても不可能だったでしょう。やはり、ほぼ同時期に発生した「方臘の乱」や、遼・金などへの北方攻撃などが重なったことが、「宋江」にとって大変運がよかったのではないかと思います。しかし、もう一つ重要なことに、「方臘」はマニ教の徒ですが、「宋江」はヤクザだったことが挙げられます。宗教信者はただただ暴動を起こすばかりですが、ヤクザはゆするのが仕事ですからね。

52:名無し: 2017-05-20 17:40:21

17~51の続き 「宋江」の本心は招安を実現することです。それには反乱軍という後ろ盾は欠かせません。このため、組織の分裂は絶対に避けなければならないのです。やはり、招安を希望する者とそうでない者の立場を尊重する必要があります。さらに、朝廷内(山東省・府・州・県)へ反乱軍から何人も官吏に登用されることで、政策に意見を反映することが可能となるのです。しかも、招安しなかった者たちが、外郭組織として強力にかつ激しく支援活動することで、朝廷内の「宋江」達の力が増します。つまり、招安後も反乱軍は一致団結し続け、それが故「宋江」達も朝廷内での地位が確立されるという訳です。これは、現代でも同じことが言えますね。

51:名無し: 2017-05-20 01:34:29

17~50の続き 逆に、反乱軍全員が招安するという訳にもいきません。「盧俊義」達のような元官僚なら可能かもしれませんが、「劉唐」、「阮小二」、「阮小五」、「阮小七」は、字も読めませんし無法者ですから、とても官吏は務まりません。その上、招安には絶対反対するでしょう。やはり、反乱軍内部で何度も話し合い、全員が納得できるものになったのではいかと思います。それは、次のような要求内容だったのではないでしょうか。やはり反乱軍の要求ですから、朝廷内の政務の主導権まで要求するものがあったとしても不思議ではありませんね。
 ➀和解金を支払うこと
 ②全員無罪とすること
 ③招安を希望する者は、官吏に登用すること
 ④招安した者の意見を政務に反映すること(減税、公平な裁きなど)
 ⑤民間人として復職を希望する者は、その職を保証すること

50:名無し: 2017-05-19 19:56:05

17~49の続き 「招安」は、水滸伝の中でも最も大きな見せ場の一つでしょう。ここでは次の2点がポイントとなると思います。
 ➀宋江の反乱軍内部のまとめ方
 ②朝廷側の反乱軍に対する対応
歴史に記録されている内容は、ごくわずかです。このわずかの記録から想像してみましょう。

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