トリビア

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2013年12月27日up

吉川英治氏の遺作だって知ってた?『新・水滸伝』

日本を代表する小説家、吉川英治(よしかわ・えいじ)氏。その最後の作品が「水滸伝」を原作とした「新・水滸伝」だったこと、皆さんはご存じだろうか?

生涯に長編・短編あわせておよそ240作品を残し、多くの人に愛されたことから「国民作家」と称された吉川氏。「三国志」「宮本武蔵」「新・平家物語」をはじめ、名作の数々は今なお読み継がれ、人気を保っている。

新・水滸伝 全4巻(講談社/吉川英治歴史時代文庫)

その吉川氏の絶筆となったのが「新・水滸伝」。ストーリーは原作「水滸伝」に比較的忠実な形で展開されるが、登場人物の台詞やシーンの描写は日本の時代劇を思わせる軽快な調子になっている。「吉川節」が随所に効いて読みやすく、主要登場人物一人ひとりが生き生きと描かれた活劇大作といえよう。たとえばこんな調子である。

「ほい、こいつは、どうも…さあ、執事さまも一杯おやんなすって」
「いかさま、これはよい焼酎だな。むむ美味い。楊輸送使にも、一椀すすめてみよう」

しかし、楊志は飲もうとはしなかった。もともと、彼はそう飲み手ではない。だが、喉の渇きは、彼とて同じだった。そこでつい、もう桶も空となりかけたころとなって、

「ひと口、飲るか」
と、わずか半杯ほど飲んだ。

「ありがとう。…おかげで今日は、もとの麓へ舞い戻りとござアい。はははは。じゃあ、皆さん、ごきげんよう」

酒売りの男は、愛想をいうと、空桶担って、もと来た坂道の方へ、すたすたと、足早に立去ってしまった。

これは楊志が護送中の財宝を奪われる「生辰綱の智恵取り」(単行本第1巻)のシーンである。この江戸っ子調の独特のセリフ回しは吉川文学の完成形と言っていいだろう。実に痛快でおもしろい。

惜しむらくは、連載中に吉川氏が亡くなったため、単行本4巻で未完となったことだが、それでも梁山泊に108星が集結するところまでは書かれている。いわゆる原作の「70回本」(120回が最長)に相当するボリュームはあるし、「水滸伝が本当に面白いのは70回まで」というファンの声も多いことを考えると十分に完成された作品だ。

「新・水滸伝」の連載がはじまったのは昭和33年(1958)。当時吉川氏は毎日新聞で「私本太平記」を連載中だった。そこへ講談社の月刊誌『日本』への連載の依頼を受けるが「新聞のほかに月刊誌へ連載するのは今の僕には無理です。連載中の私本太平記は資料調べに大変時間がかかるので…」と、吉川氏は当初依頼を断ったという。

しかし、編集者の熱意に折れて承諾。「三国志」(1939~1943年)に続く中国文学を原作とした「新・水滸伝」の連載を始めた。月刊誌なので連載は長期にわたり、人気を博していたが、3年後の昭和36年(1961)夏ごろ、吉川氏は体調を崩す。当時軽井沢に住んでいたが、毎晩激しい咳に悩まされ、睡眠もままならぬ状態だったという。

10月、帰京して病院に行くと肺がんが発覚。入院・手術は一刻を争ったが、吉川氏は「筆を休めては読者に相済まない」と1日の猶予をもらい、23枚の原稿を一気に書き上げた。その日の午後に築地の国立がんセンターに入院し、手術を受けたがすでに手遅れだったようだ。それから1年の闘病生活の後、満70歳で世を去ってしまう。

国民的作家の絶筆となったのは「新・水滸伝」4巻の最後に収録されている、泰山の奉納大相撲の回。そう、燕青が任原を打ち負かすシーンだ。この前の回で両者が対峙するところを描いていた吉川氏としては、なんとしても読者のために相撲の決着シーンまで書き上げておきたかったに違いない。未完絶筆は本人も不本意だっただろうし、退院が叶えば120回まで描くつもりだったのかもしれない。…そう思いながら読み返すと、ひときわ感慨深いものがある。

2013年は吉川氏が亡くなった1962年から数え、ちょうど50年。「三国志」や「宮本武蔵」など名作の著作権が切れ、講談社以外の出版社からも彼の作品が発売されたほか、電子化してネットで公開されているものもある。「新・水滸伝」は従来の講談社の文庫本(冒頭の写真)がよく出回っているので入手しやすい。また電子版も販売されている。「水滸伝」好きで未読の方はもちろん、「水滸伝」初心者にも最適な書として、ぜひおすすめしたい作品である。

文・上永哲矢〈哲舟〉=歴史コラムニスト