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2013年6月26日

【連載コラム】「禁軍」(2) ―軍閥解体から生まれた「文民統制」―

今回は禁軍がどうして文官優位の軍隊になったのかをその成立の歴史的背景から見てみよう。

唐の玄宗の時代以降、「節度使(せつどし)」とよばれる地方軍司令官が置かれたが、次第に節度使たちは地方の財政や行政も掌握、中央の朝廷の統制から自立して、「藩鎮(はんちん)」と呼ばれる地方軍閥と化し、皇帝の直轄兵力は禁中(朝廷)を守備する近衛軍、つまり禁軍だけとなっていた。

唐末期には中国は軍閥による群雄割拠の様相を呈するようになり、唐王朝は節度使の朱全忠(しゅぜんちゅう)により滅亡する。その後の中国は、各地の軍閥が抗争を続け、配下の兵士から皇帝に擁立された軍人によって次々と王朝が交替する五代十国(ごだいじっこく)と呼ばれる動乱の時代を迎える。

五代では、軍閥出身の皇帝の地位と権力はその軍事力に依存していたため、新たに禁軍に昇格して優遇された配下の兵たちは恩賞が約束されなければ戦わず、老兵の解雇さえ認めない既得権益集団となっていた。

こうした状況を受けて、後周(951~960)の世宗は軍制改革に取り組む。老弱兵を中心に軍のリストラを断行、また藩鎮から精兵を抽出させて、それまでの侍衛親軍のほかに、禁軍に「殿前軍」(でんぜんぐん)を新設し、皇帝直轄兵力の強化と地方軍閥の弱体化と皇帝権力の確立を図ったのである。

こうした世宗の一連の軍制改革は、後周の後を襲って北宋の太祖となった趙匡胤(ちょうきょいん)にも継承される。

北宋では、軍は皇帝直属の禁軍に一本化。中央官庁である枢密院の管轄として、地方軍の精兵は残らず禁軍に組み入れて、残された地方軍の二線級兵力は廂軍として再編成された。

こうして中央の正規軍・禁軍が治安維持や対外戦争を行い、地方行政区管下の廂軍は主に兵糧運搬や土木工事などに従事することとなった。このほかにも郷土防衛の民兵組織・郷軍、異民族から構成され辺境守備にあたる藩軍が存在した。

また五代までの軍閥は節度使に雇用された私兵集団というべきものだったが、北宋では部隊の司令官を任地から定期的に異動する制度を採用することで、司令官と配下の兵士の間の結びつきが深くならないようにして軍閥化を防止している。

この様に北宋は地方軍閥の解体と皇帝権力の確立を成し遂げて、中国史上屈指の文治政治の時代を築き上げたのであるが、反面、文治政治は軍事力の弱体化を招いて、北方遊牧民の王朝である遼・西夏に対して常に守勢に回らざるを得ず、最終的に金軍の侵攻を受けて滅亡することになるのである。

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